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昭和29年(1954年)建設。昭和28年(1953年)に全焼した木造校舎をれんが造りで再建。れんがはすべてイギリス積みで、使用総数は約70万個。平成14年(2002年)閉校し、平成16年(2004年)から通信制大学の星槎大学が管理している。国の登録有形文化財。
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木造の体育館は、屋根を支える木骨トラスの幾何学的形状が特徴的。国の登録有形文化財。
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校章。同校は、三井鉱山芦別鉱業所が従業員子弟のために建設費を全額負担した。昭和30年代には児童数が2000人を超え、産炭地でも有数のマンモス校だった。
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明治43年(1910年)に頼城教育所として設置。大正6年(1917年)頼城小学校と改称。昭和28年(1953年)に火災で全焼したため、翌年、現在の校舎が建てられた。校舎はれんが造りで延床面積4187平方メートル。教室数36、一線校舎は全長106メートルの特異な建築物。体育館は屋根を支える木骨トラスの幾何学的形状が特徴的。平成14年(2002年)閉校。国の登録有形文化財。
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昭和20年(1945年)に完成した旧三井芦別鉄道の橋梁。橋長94メートル、鋼製6連プレートガーター桁橋とコンクリート造2連アーチからなり、深い渓谷に約30メートル、最大直径7メートルのコンクリート製橋脚が5本連続して立つ。橋梁上にはディーゼル機関車DD501と石炭専用貨車セキ3820が展示され、当時の様子を今に伝えている。国の登録有形文化財。
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旧三井芦別専用鉄道は、昭和15年(1940年)石炭を中心とした物資輸送のために設置されたが、炭鉱の拡大により従業員や家族の輸送が必要となり、昭和17年(1942年)から旅客列車の運行も始まった。
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橋梁の建設は、戦時中の物資統制下にあり資材不足に悩まされていたため、当時の大阪鉄道局から払い下げられた6連プレートを鉄道で運搬し据え付けられた。
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旧三井芦別鉄道炭山川橋梁の建設工事。昭和19年(1944年)、頼城鉱開発に着手したのに伴い専用線も延長。炭山川橋梁を含む橋梁2基を建設した。昭和20年(1945年)に芦別-頼城間9.11キロメートルが全線開通し、国の石炭増産の要請に応えた。
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当時、三井地区の住民の足であり、石炭貨車が47両も連結された貨物列車が走る光景は炭鉱街ならではの風物詩であったが、昭和47年(1972年)に旅客営業が廃止となり、石炭運搬も次第にトラック運送に置き換わっていった。
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概要
三井芦別炭鉱は「芦別五山」として知られる大手5炭鉱のひとつ。昭和14年(1939年)、三井鉱業所一抗が開坑。昭和30年代前半には市内に4500人あまりの従業員数がいたとみられる。平成4年(1992年)閉山。
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「芦別五山」として知られる大手5炭鉱のひとつ。三菱合資会社が大正時代に上芦別の京都植民協会の農地を買収して開鉱した。昭和8年(1933年)、三菱鉱業は休業するが、戦後の昭和22年(1947年)に事業を再開した。昭和39年(1964年)閉山。
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「芦別五山」として知られる大手5炭鉱のひとつ。昭和22年(1947年)開鉱。昭和40年(1965年)閉山。
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芦別の炭鉱では職場と住居が近い職住近接が一般的だった。炭鉱街では社宅や寮といった住環境だけでなく、病院や映画館、浴場などの福利厚生施設が生活圏内に用意されていたという。
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明治26年(1893年)、山形県の出身者が移住。その後も石川県や富山県からの移住者たちにより開拓が進んだ。明治33年(1900年)に歌志内村から独立して芦別村となり、昭和16年(1941年)に町、昭和28年(1953年)に市となった。
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石炭産業の伸張に伴い、炭鉱のまちとして発展した芦別。昭和28年(1953年)に市となり、昭和33年(1958年)には人口7万5000人あまりとなった。芦別駅前を中心とした商店街のにぎわいが往時の勢いを物語る。
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石炭産業の伸張に伴い、炭鉱のまちとして発展した芦別。昭和28年(1953年)に市となり、昭和33年(1958年)には人口7万5000人あまりとなった。芦別駅前を中心とした商店街のにぎわいが往時の勢いを物語る。
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芦別の農業のようすや公園の景色、人々の生活を支える公的機関、そしてまちを俯瞰する眺めなど、懐かしい風景を紹介する。
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人口増加に伴って各地区に小学校や中学校が設置されたが、人口増加を後押しした石炭産業がエネルギーの転換によって下火になると、地域の人口は減少。閉校が相次いだ。令和2年度現在残るのは、小学校2校・中学校2校。
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鉱山を象徴する文化としてヤマの安全を祈願する山神祭が挙げられる。神輿が街を練り歩き、露店や芝居などまつりならではのイベントが地域の住民を楽しませた。また、スポーツも盛んで、各地区対抗で相撲や柔道、野球、スキー大会などが開催された。
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大正時代、滝川・富良野間の鉄道開通に伴い、下芦別駅・野花南駅・奔茂尻駅が開業。下芦別駅は昭和21年(1946年)、芦別駅となった。各炭鉱では運炭用の専用鉄道も設置され、そのうち旧三井芦別鉄道の炭山川橋梁は日本遺産「炭鉄港」の構成文化財になっている。
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芦別市が市制を施行した昭和28年(1953年)を中心にその前後の記念行事、住民生活を記録したさまざまな映像と三井砂川炭鉱の水力採炭工法を紹介する映像などがある。開町50周年記念として昭和25年に制作された「躍進する大芦別」では当時の街並みや施設・主要産業などがよく伝えられており、活気に満ちた町の雰囲気が記録されている。
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概要
ガタタンは、白菜、ニンジン、タマネギ、豚肉、エビ、ホタテ、椎茸、山菜、ちくわ、小麦粉を練った団子など10種類以上の具材からなっており、豚骨や鶏ガラなどがベースのとろみのあるスープに、溶き卵を落として食べるのが基本。本来、ガタタンはスープのみだったが、現在はガタタンラーメンやガタタンチャーハン、ガタタン焼きそばなどアレンジを加えた料理が芦別市内の飲食店で出されている。
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概要
炭鉱町の食文化のキーワードは「安価で栄養価が高い」。当時北海道でも養豚が広まったが、豚の精肉は庶民の口にはなかなか入ることはなかった。しかし、もともと捨てられていた内臓系であれば比較的安価で手に入り、産地が近いので鮮度も抜群。当時の炭鉱マンにとても人気があった。近年は「炭鉱ホルモン」として札幌などでも注目されている。
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