豊里炭鉱
概要 |
豊里炭鉱は昭和12年(1937年)開鉱。3年後には年間約36万トンを生産し最盛期を迎えたが、炭層の条件に恵まれなかったため経営は不安定だった。閉山をめぐり、昭和41年(1966年)に「ヤマをつぶさないで」と赤平市内の小学生が手紙で訴えたのに対し、当時の佐藤栄作総理は「ヤマは見捨てない」と異例の返事を送ったが、昭和42年(1967年)に閉山した。写真は、蓄電池式の坑内電車。 |
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自治体 | 赤平市 |
種別 | 炭鉱 |
メディア | 写真 |
分野 | 産業 労働 暮らし・行事 その他 |
年代 | 昭和初期(1926~1945) 昭和中期(1946~1967) |
説明 | 昭和電工炭鉱事務所と選炭場。豊里炭鉱は、昭和電工系の企業が昭和12年(1937年)に開き、昭和29年(1954年)に豊里鉱業が経営を引き継いだ。 |
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資料番号 | 07_n_006_0001 |
撮影年 | 昭和初期 |
所蔵 | 赤平市 |
説明 | 豊里炭鉱開鉱時の坑口と従業員。 |
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資料番号 | 07_n_006_0002 |
撮影年 | 昭和12年(1937年) |
所蔵 | 赤平市 |
説明 | 豊里炭鉱。蓄電池式の坑内電車。 |
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資料番号 | 07_n_006_0003 |
撮影年 | 昭和15年(1940年)ころ |
所蔵 | 赤平市 |
説明 | 豊里炭鉱の電力を確保するため、ドイツ人技師の指導で建設した火力発電所。開鉱2年後の昭和14年(1939年)完成。 |
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資料番号 | 07_n_006_0004 |
撮影年 | 昭和14年(1939年) |
所蔵 | 赤平市 |
説明 | 豊里炭鉱事務所。 |
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資料番号 | 07_n_006_0005 |
撮影年 | 昭和20年代 |
所蔵 | 赤平市 |
説明 | 豊里炭鉱の斜坑巻揚げ機用ロープシーブ櫓。 |
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資料番号 | 07_n_006_0006 |
撮影年 | 昭和30年代 |
所蔵 | 赤平市 |
説明 | 豊里炭鉱の選炭機。 |
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資料番号 | 07_n_006_0007 |
撮影年 | 昭和30年代半ば |
所蔵 | 赤平市 |
説明 | 豊里炭鉱の重液式選炭機。重液式選炭とは、比重の大きい液 (重液) を使って石炭と不純物を分離する方法。 |
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資料番号 | 07_n_006_0008 |
撮影年 | 昭和40年(1965年)ころ |
所蔵 | 赤平市 |
説明 | 豊里炭鉱のズリ山。 |
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資料番号 | 07_n_006_0009 |
撮影年 | 昭和40年(1965年)ころ |
所蔵 | 赤平市 |
説明 | 豊里炭鉱の貨車積みポケット。 |
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資料番号 | 07_n_006_0010 |
撮影年 | 昭和42年(1967年) |
所蔵 | 赤平市 |
説明 | 豊里炭鉱閉山反対総決起集会。 |
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資料番号 | 07_n_006_0011 |
撮影年 | 昭和41年(1966年) |
所蔵 | 赤平市 |
説明 | 昭和41年(1966年)8月、当時の佐藤栄作総理に向けて、豊里炭鉱存続を訴えた手紙を読む小学生。佐藤総理は「ヤマは見捨てない」と異例の返答をしたが、翌年、閉山となった。 |
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資料番号 | 07_n_006_0012 |
撮影年 | 昭和41年(1966年) |
所蔵 | 赤平市 |
説明 | 合理化に反対する豊里炭鉱の労働組合と主婦会の集会。 |
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資料番号 | 07_n_006_0013 |
撮影年 | 昭和41年(1966年)ころ |
所蔵 | 赤平市 |
説明 | 豊里炭鉱閉山式に参加する従業員。 |
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資料番号 | 07_n_006_0014 |
撮影年 | 昭和42年(1967年) |
所蔵 | 赤平市 |
説明 | 豊里炭鉱閉山式。 |
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資料番号 | 07_n_006_0015 |
撮影年 | 昭和42年(1967年) |
所蔵 | 赤平市 |
説明 | 豊里炭鉱の旭坑口閉鎖式。 |
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資料番号 | 07_n_006_0016 |
撮影年 | 昭和42年(1967年) |
所蔵 | 赤平市 |