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夕張24尺層と言われる石炭の大露頭。下から10尺、8尺、6尺の3枚の炭層が重なって24尺(約7.3m)の厚さがある。明治21年(1888年)道庁技師の坂市太郎の調査で発見された。良質な石炭を間近に観察できる天然の標本であり、国内最大規模の大露頭は、「炭都夕張」の出発点といえる。北海道指定天然記念物。
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夕張24尺層は、新生代古第三紀(約5000万年前)の地層で、黒色でツヤがあり、炎を上げて燃える良質な石炭が重なっている。メタセコイアなどの針葉樹が原料と考えられている。製鉄の原料炭として、日本の近代化に重要な役割を果たしてきた。北海道指定天然記念物。
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石炭の大露頭は、教育・自然科学的にも極めて貴重な天然の標本であることに加え、地球が生み出した類まれな景観として、訪れた人たちを魅了してきた。
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夕張炭鉱の3番目の斜坑として明治33年(1900年)に開坑し、大正7年(1918年)に天龍坑と名前が変わった。人車斜坑は、正面から見ると左右に翼を張り出したようなレンガ造りが美しい。
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北炭夕張炭鉱の斜坑・水平坑の名前は、北上、天龍、神通など、河川名に由来していた。
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人車斜坑坑口のすぐそばに残る天龍坑の資材斜坑。レンガで築かれた半円アーチが美しい坑口だった様子をとどめている。
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天龍坑の斜坑人車に乗った鉱員の記念撮影。昭和10年代に撮影された一枚で、お揃いのポーズとにこやかな表情から、産業紹介など宣伝用に撮影されたと思われる。
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昭和14年(1939年)の天龍坑口での慰問の様子。全国安全標語は「興亜の偉業に輝く安全」。各炭鉱会社は独自の従業員心得も策定した。
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戦時下の坑口慰問。戦争激化の中、社光地区の婦人会が天龍坑でお茶を振る舞う。「進め一億皆戦士」など戦時高揚と増産のスローガンも見える。
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夕張鹿鳴館(旧北炭鹿ノ谷倶楽部)。北炭が賓客や会社幹部の宿泊、会合に使った。北炭には数多くの倶楽部があったが、規模のみならず質とも北炭を代表する倶楽部だった。
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鹿ノ谷倶楽部は、大正2年(1913年)に北炭が北海道支店を岩見沢から夕張に移転の際に重役宅を移築後、更に増築して開設した。
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昭和30年(1955年)前後の鹿ノ谷倶楽部。建物の中央部分が皇室の宿泊所として増築された。
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ライトアップされた鹿ノ谷倶楽部。 安藤文雄さん撮影。
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北炭が建設した水力発電所で、大正13年(1924年)に稼働を開始した。平成6年(1994年)に北海道企業局に譲渡され、現在も稼働している。
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アーチ窓の外観が美しく、正面上部には北炭の社章をかたどったガラスが収まっている。
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滝ノ上水力発電所は、夕張川本流を千鳥の滝の上流で堰き止め、川の水を使って水車を運転した。当時としては斬新な設計だった。
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旧北炭夕張炭鉱模擬坑道(夕張市石炭博物館)は、昭和14年(1939年)、皇族の夕張訪問の際に見学用坑道として整備。昭和29年(1954年)に昭和天皇・皇后両陛下が夕張を訪問された際には採炭機械も設置され、模擬坑道としての形が整えられた。
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炭鉱の歴史を紹介する見学コースでは、採炭の仕組みを間近で知ることができる。公開されている国内唯一の模擬坑道は、平成31年の火災のため現在は見学不可。
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見学コースの一部には、自走枠やドラムカッターが設置され、迫力ある採炭の様子が再現されている。
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昭和29年(1954年)、昭和天皇が夕張を訪れ、整備されたばかりの模擬坑道をご見学。
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旧北炭清水沢水力発電所は、電力需要の増加のため、昭和13年(1938年)に清水沢火力発電所の上流に建設された。
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稼働開始直後の発電量は2000キロワットだったが、昭和38年(1963年)には3400キロワットに増強された。
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昭和27年(1952年)から、夕張利水計画の一環として全額国費負担で堰堤のかさ上げが行われた。竣工は昭和29年(1954年)。今、周囲は豊かな自然にあふれている。
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清水沢水力発電所側から見た旧北炭清水沢火力発電所。建物後方の2つの山はフライアッシュと呼ばれた燃焼灰。
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フライアッシュ(燃焼灰)の山から撮影した風景。手前側の火力発電所の奥に水力発電所の施設が見える。
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旧北炭清水沢電力所と火力発電所。火力発電所の煙突の数は、煤煙排出の環境基準に沿って集合煙突になったため、昭和30年代の写真と比べると減っている。 安藤文雄さん撮影
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採炭救国坑夫の像は昭和19年(1944年)に制作され、完成当時は「進発の像」と呼ばれていた。昭和60年(1985年)までは北炭夕張鉱業所前庭に設置され、現在は夕張市石炭博物館に移されている。令和2年(2020年)に修復を終えて、新たな歴史を刻み始めている。
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夕張は、開拓使に雇われた鉱山地質学者ライマン一行の調査で、明治9年(1876年)に石炭の存在が推定された。同21年(1888年)に北海道庁技師の坂市太郎が志幌加別川流域に延々と続く炭層を発見。明治23年(1890年)には夕張採炭所が設置され採炭を開始、一世紀近い石炭産業の歴史が始まる。
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夕張の炭鉱は、戦争による石炭の大増産を経て一気に活性化した。しかし、終戦直後は戦時中の乱掘による坑内の荒廃や資材不足、外国人(朝鮮人、中国人)労働者の一斉帰還による労働力不足により出炭量は低迷した。その後、石炭増産による戦後復興を目的に資源を集中投下する「傾斜生産方式」が推し進められた。昭和33年(1958年)に炭鉱数は158となり、北海道内の炭鉱が最も繁栄した時代を迎える。
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明治23年(1890年)に夕張炭鉱が採炭を開始して以来、炭鉱の街として夕張は栄えてきた。一時は、大小10以上の炭鉱が操業し、人口も12万人を超える。しかし、昭和30年代半ばに入ってからは石油の普及が進み、石炭産業はその輝きを失い始める。各炭鉱は積極的な投資に乗り出し、合理化対策を進めて生産の高い炭鉱への生き残りを図っていく。
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概要
北海道炭礦汽船株式会社の歩みは北海道の石炭産業の歴史であり、夕張の盛衰とも密接に重なり合う。戦後復興の主役となった石炭の増産期を経て、昭和35年(1960年)のピークを境に夕張は人口減少、閉山へと向かっていく。とはいえ、炭鉱周辺の暮らしはまだ豊かで、当時の花形スポーツのプロ野球や大相撲が会社の周年事業として次々と招かれ、地域を盛り上げた。
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炭層は、傾斜、厚さ、ガス量、断層の有無などで採掘する条件が異なってくる。特に夕張の炭層は厚い層が多く、開発当時から様々な研究が行われてきた。ツルハシ掘りから始まった採炭は、発破採炭などを経て、機械化された採炭へ進む。夕張でも採炭を合理化する研究が熱心に行われ、カッペと鉄柱を用いたカッペ採炭法は、採炭技術に大きな革新をもたらした。
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炭鉱では男性だけではなく、女性が活躍する仕事も多かった。大正元年(1912年)の調査によると、夕張だけでも300人近い女性が坑内作業に従事していた記録が残っている。大正から昭和にかけて、女性を過酷な労働から守る法律が次々と整備されていく。女性が活躍した選炭場も戦後は合理化が進み、「選炭婦」と呼ばれた多くの女性たちは次々と姿を消していった。
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明治・大正時代を経て石炭増産が始まると、夕張には多くの人があふれ、食料をさばく市場や商店が立ち並ぶようになった。そして、昭和に入り戦争の気配が濃くなり始めると、戦争遂行のために石炭の生産量は一気に高まる。やがて、若者たちが次々と出征することで生じた労働力不足や資材の老朽化は深刻となり、石炭もついに販売統制が始まった。
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戦後まもない夕張は、経済復興のけん引役として巨額の政府資金なども投入され、急速な活況を見せる。好不況の波に揉まれながら、昭和30年代に入ると空前の石炭大生産が始まった。炭鉱には大型機械が次々と導入され、映画は札幌よりも早く公開された。顔を真っ黒にして働き、家族や仲間と炭住の日々を楽しむ、たくましく生きる人たちの笑顔があふれた。その一方で、昭和30年代後半は、閉山や人員合理化など炭鉱の斜陽化が顕著になってきた時期でもあった。
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夕張は、大正初期からスポーツが盛んな土地柄だった。北炭は、各炭鉱に福利厚生施設として運動場を設け、役員名を冠した賞を競う「重役カップ」と呼ばれる各種目の炭鉱対抗争奪戦で大いに盛り上がる。昭和30年代、炭鉱の出炭量が戦後のピークに達し始めると、労働運動によって炭住や福利厚生は更に充実し、夕張のスポーツや文化活動は大きく花開く。
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夕張の風景は、時代とともに大きく変わってゆく。明治時代から数多くの写真が残され、地域の景勝地や石炭産業の様子も絵葉書などに時代の記録として写し込まれた。産業が隆盛を極め、人が集まり、街並みが活気にあふれる。雑貨店から演芸場、料亭、旅館に至るまで、当時の街角の息遣いが伝わってくる。
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夕張の市街地を囲む周辺の山並みは今、豊かな緑にあふれている。しかし、かつては山の斜面一帯に炭住が所狭しと建ち並び、独特の街並みを形成していた。通勤や通学のための人車が高台まで整備され、夜には高台の上まで炭住の明かりがともる。さまざまな方向から街並みを眺めると、炭鉱が繁栄した時代の風景が広がってくる。
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夕張の教育は、明治23年(1890年)に12人ほどが学んだ寺子屋方式から始まった。昭和初期には兵式体操(教練)が体操科目となっていく。戦後、出炭量と比例して児童数は増え続け、昭和34年(1959年)には、22の小学校に2万人の児童が学んだ。炭住の子どもたちは、玄関を開けるとそこが遊び場。弟や妹の面倒を見ながら、家事を手伝いながら夕暮れまで遊ぶのが、炭鉱の繁栄した時代の日常の風景だった。
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夕張の教育事情が最もひっ迫したのは、大正時代だった。増加する児童数に対して教室が足りず、二部授業によって急場をしのぐ状況だった。校舎の老朽化もあり、大正8年(1919年)には全小学校の改築が計画されるが、増加する児童数は解決せず、二部授業はその後しばらく続く。また翌9年(1920年)には夕張工業学校が開校する。北炭が技術職員の養成を目的として、採鉱科で3年間学ばせる企業内の教育機関だった。
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明治時代の採炭開始以来、夕張では度重なる炭鉱事故で多くの人命が失われてきた。一方、市街地では雪が解けた春先の乾燥期には、建物の煙突から出る火の粉が原因の大火災が時折発生した。昭和24年から4年間で、本町、清水沢、真谷地と大火が続く。特に昭和24年(1949年)の本町大火は、本町1~3丁目という市街地中心部を約3時間で焼き尽くし、335戸399世帯1600人が焼け出された。
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「炭都夕張」の歩みと鉄道は切り離して語れない。国鉄夕張線を始め、夕張鉄道、三菱大夕張鉄道、北炭真谷地炭鉱専用鉄道に加え、夕張岳の麓では森林鉄道が活躍した。「炭鉱は輸送業」と語られた通り、煙を吐く蒸気機関車を先頭に黒ダイヤを満載した石炭列車は各地に向かう。炭鉱開発と鉄道整備は一体となって行われ、黒鉄(くろがね)の雄姿とともに沿線に響き渡る汽笛は、人々の記憶に残り続けている。
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戦後、労働運動の波が押し寄せ、メーデーでは様々なプラカードを掲げ鉱員らが市街地を練り歩いた。空知の石炭産業は、昭和35年前後には戦前の生産量まで回復して大いに栄えた。その一方で、国は石油へのエネルギー政策の転換を進める。炭鉱の合理化が進み、中小炭鉱の経営は悪化した。そうした中、炭労の「石炭政策転換闘争」(政転闘争)が始まり、夕張も激しい時代のうねりに巻き込まれていく。
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日本が経済不況からの脱却を図るために大陸進出を図った時代と太平洋戦争後の第1次高度経済成長期の映像。いずれも石炭生産の重要性と鉱員の仕事や暮らしを描き、夕張の炭鉱開発の中心となった北海道炭礦汽船株式会社(北炭)の創業史と採炭事業を知ることができる。また、当時の皇太子殿下が北炭を視察する様子なども映像に記録されている。
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昭和初期・中期・後期における記録映像から炭鉱関連映像・炭鉱紹介映画・劇場用映画・夕張市の広報PR映画など、幅広く16mmフィルム映像が残されている。中には、松竹(株)が夕張市に贈呈した「幸福の黄色いハンカチ」16mm版や登川2区の少年野球チームを舞台にした映画、夕張の少年少女が旅を通して成長する姿を描いた児童劇映画などもある。
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昭和中期に撮影された北炭(株)平和地区関連の労働争議や組合活動・盆踊り・山神祭・野球大会・そして市民大運動会などの記録。夕張の住民が一体となって楽しむ行事の記録と教育委員会が保管していたと思われる北海道夕張東高校の学校祭・炊事遠足・卒業式などの映像が記録されている。
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昭和7年(1932年)から昭和36年(1961年)までのさまざまな映像媒体を基にしたVHSテープ群。戦前から戦後の「炭鉱の街・夕張」の隆盛期を捉えたフィルム映像が、VHSテープに記録として残されているものが多い。夕張の最盛期は人口12万人近くを数えた。炭鉱の歴史や採炭、出荷だけではなく、鉱員や住民の暮らしぶりや行事を知ることができる貴重な資料となっている。
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昭和37年(1962年)以降の「炭鉱の街夕張」は、石炭から石油への国のエネルギー政策の転換と相次ぐ炭鉱事故や経営不振により、閉山が進む。そうした中、地域と街の記憶と記録を残そうという動きが高まる。写真のVHSテープには、夕張のお囃子や小唄が集められている。
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夕張市で営業していた一軒の蕎麦屋「藤の家」で愛された看板メニュー「カレーそば」。豚バラ肉と玉ねぎを使い、ピリッとくる辛さでとろみのあるつゆが、器の縁までなみなみと注がれて提供された。
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