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住友赤平炭鉱の立坑は昭和38年(1963年)に完成した。効率出炭を追求した施設で、当時「東洋一の立坑」と呼ばれた。櫓の高さは43.8メートル、深さ550メートル。深部採炭が可能になったことで、出炭量は昭和37年度(1962年度)の124万トンから、昭和38年度(1963年)は166万トンに大きく伸びた。
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住友赤平炭鉱の立坑は、1ケ-ジ18人が搭乗し、4ケ-ジ72人が一気に地底まで降り、24トンの石炭が次々と地上に運び出された。立坑完成により入坑・出坑にかかっていた時間的ロスも改善された。
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赤平市の中心部に近い住友赤平炭鉱立坑。「ネオンのともる立坑」とも呼ばれ、炭都・赤平の象徴的な存在だった。
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概要
住友赤平炭鉱は、昭和13年(1938年)開鉱、平成6年(1994年)閉山。住友系の道内主力炭鉱。昭和38年(1963年)に完成した立坑は、効率出炭を追求した施設で、当時「東洋一の立坑」と呼ばれた。56年間の総出炭量は4939万トン。住友赤平の閉山により、赤平では1世紀にわたる炭鉱の歴史に幕を閉じた。写真は、斜坑の人員輸送に活躍した人車。
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住友赤平炭鉱は、昭和13年(1938年)開鉱、平成6年(1994年)閉山。住友系の道内主力炭鉱。昭和38年(1963年)に完成した立坑は、効率出炭を追求した施設で、当時「東洋一の立坑」と呼ばれた。56年間の総出炭量は4939万トン。住友赤平の閉山により、赤平では1世紀にわたる炭鉱の歴史に幕を閉じた。写真は、1日の労働を終え、入浴する炭鉱マン。
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北炭赤間炭鉱は、昭和13年(1938年)開鉱。昭和40年(1965年)に北炭子会社の空知炭砿(歌志内)と合併し、昭和48年(1973年)まで採炭を続けた。最盛期の昭和45年(1970年)には、約53万トンを出炭。35年にわたって排出されたズリが積み重なってできた山は、赤平市が開基100年記念事業として階段と展望台を整備した。ズリ山階段数777段は日本一。写真は、北炭赤間炭鉱選炭工場と赤平駅構内。
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茂尻炭鉱は、赤平の大手4炭鉱のうち最も早い大正7年(1918年)に大倉鉱業が開き、三菱鉱業を経て雄別炭鉱が引き継いだ。生産効率の向上を目指して建設した立坑は昭和42年(1967年)に完成し、翌年には51万トンと出炭量のピークを記録した。しかし、昭和44年(1969年)に19人が死亡する爆発事故が発生、閉山につながった。写真は、開鉱当時の選炭場。
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茂尻炭鉱は、赤平の大手4炭鉱のうち最も早い大正7年(1918年)に大倉鉱業が開き、三菱鉱業を経て雄別炭鉱が引き継いだ。生産効率の向上を目指して建設した立坑は昭和42年(1967年)に完成し、翌年には51万トンと出炭量のピークを記録した。しかし、昭和44年(1969年)に19人が死亡する爆発事故が発生、閉山につながった。写真は、茂尻炭鉱の立坑。
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豊里炭鉱は昭和12年(1937年)開鉱。3年後には年間約36万トンを生産し最盛期を迎えたが、炭層の条件に恵まれなかったため経営は不安定だった。閉山をめぐり、昭和41年(1966年)に「ヤマをつぶさないで」と赤平市内の小学生が手紙で訴えたのに対し、当時の佐藤栄作総理は「ヤマは見捨てない」と異例の返事を送ったが、昭和42年(1967年)に閉山した。写真は、蓄電池式の坑内電車。
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概要
赤平市は明治24年(1891年)に開拓が始まった。大正2年(1913年)に鉄道が開通し、大正7年(1918年)には茂尻炭鉱が開鉱。昭和10年代初めに住友赤平、北炭赤間、豊里の各炭鉱が相次いで開鉱し「石炭のまち」として発展した。炭鉱を中心に開かれたまちは狭い範囲に職住が接近し、人々の間には炭鉱独特の強いきずながあり、「一山一家」という意識が育まれた。写真は、住友赤平炭鉱のプール。
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